巨人キラーのツバメのエース
選手名 川崎憲次郎(かわさき・けんじろう)
経歴 大分県立津久見高等学校ーヤクルトスワローズ(1989①-2000)ー中日ドラゴンズ (2001-2004)
1998年成績 29登板(28先発)204.1投球回 17勝10敗 防御率3.04 沢村賞
選手紹介
90年代を中心に、背番号17を背負いヤクルトのエースとして活躍した本格派右腕。若手時代はフォーク、ひじ痛での低迷後は直球並みの速さを誇るシュートを武器に活躍した。また、通算88勝のうち29勝を巨人戦から挙げた‘’巨人キラー‘’としても知られる。
高校3年時には春夏共に甲子園でベスト8に進出した。
プロでも1年目から出場機会を掴み、巨人戦での完封を含む4勝を挙げた。2年目からはローテに定着し、冴えわたるフォークを武器に12勝、3年目には14勝を挙げた。4年目は右ひじ痛で投げられなかったが、5年目には復帰。10勝しカムバック賞を受賞した。この年(93年)の日本シリーズでは2勝を挙げ、MVPを獲得。その後もしばらくローテを守っていたが、前述の右ひじ痛が悪化し徐々に低迷期に入っていってしまった。そして、8年目の96年は0勝に終わった。
それでも川崎は再び復活した。低迷期に野村克也監督から勧められたシュートをマスターし97年は7勝。そして98年はシュートで打たせて取るスタイルを確立し、背番号と同じ17勝。リーグ最多の9完投、3完封を挙げ沢村賞を受賞。見事、完全復活を果たした。
その後2年もローテを守り、01年には元祖・巨人キラー、星野仙一監督に請われFAで中日へ。しかし、右肩痛にさいなまれ3年間1軍登板はなかった。03年にはオールスターゲームのファン投票で「川崎祭」と呼ばれるインターネットでの嫌がらせの標的に。川崎は辞退したが、かなり後味の悪い事案となってしまった。04年には新任の落合博満監督から開幕投手に選ばれる。すべてを掛けるつもりで、痛み止めを服用しこの一戦に挑んだが、1回1/3を5失点で降板。この年は3登板で1敗に終わり、戦力外通告を受け引退した。引退後は解説者。2013、14年はロッテで投手コーチも務めた。
査定について
対ピンチC 得点圏被打率は.217と低めだが、得点圏の被弾は7本で多めなのでCに
対左打者F 対左被打率.292 対右被打率.214
4月 6-3 9-0 5-4
5月 4-7 7-1 9-0 8.1-3 9-1
6月 6-1 8-2 2.2-0(リリーフ) 2.2-4 6-2
7月 9-2 6-2 7-1 8-2 7.2-6
8月 9-0 9-1 5-5 9-1
9月 7.1-3 5-4 7-3 8-4 8.2-3
10月 7-3 9-1
点を取られた時もある程度ゲームを作っている
一発 被本塁打率0.97
バント○ デフォルト。実際に犠打16をきめている
コウテイペンギンの独り言
データ的には巨人より抑えていたチームがあったりなかったりするのですが、やはり巨人キラーのイメージが強いです。中日では活躍できませんでしたが、どうしてもよくならない肩痛と容赦ないバッシングで本人もかなり苦しかっただろうと思います。
*1:自己算出なのでミスあるかも